このブログでは、ヴィタリ神父(カトリック山口教会協力司祭・イエズス会)からカトリック山口教会信徒向けに、毎日配信される「今日のみことば」を紹介しています。みなさま方には、このことばを今日一日を生きるヒントにしていただければ幸いです。
父よ、わたしにゆだねられた人々を、わたしがいるところにともにいさせてください。あなたが与えてくださった栄光を、彼らも見ることが出来ますように。(ヨハネ17・24)
イエス様が、本当に良いお友達ですね。ご自分のおられるところにわたしたちをいさせたいのです。
人はパンだけではなく、神のことばによって生きている。(マタイ4・4)
わたしたちが、朝から晩まで一生懸命働いて生活できると思い込んでいます。神様の助けがなければ、わたしたちが生きることができないことを忘れています。今日もそれを思い出して過ごしましょう。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。(マタイ28・20)
わたしたちだけにされる約束ではなく、すべての人に対してされる約束です。本当に守られることが出来るでしょうか、という疑いさえ感じます。しかしながら、寛大な神様なので、間違いなくできるのです。それで、安心して未来に向かいましょう。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3・16)
神様からのその素晴らしい贈り物に対して、わたしたちがどのように応えたらよいか、真剣に考えましょう。
人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。(ヨハ3・14-15)
わたしたちが永遠の命に与るために、イエス様が十字架の上で亡くなられることが必要とされていたわけです。その大きな愛に少しでも応えるようにいたしましょう。
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(一ペトロ5・7)
どうせ思い煩っても、何もなりませんよ。大丈夫!!
神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。(一ヨハネ1・3)
難しくないが、よく忘れたリするので、しっかりこのみ言葉を心に留めましょう。
復活されたイエス様は、集まっていた弟子たちに次のように言われました。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)
それは、イエス様がわたしたちにも与えられた使命です。全世界は広いが、身近なところから始めましょう。
イエスは弟子たちに、「ここに来て食べなさい」と仰せになった。それからパンをとり、彼らにお与えになった。(ヨハネ21・12-13)
イエス様は弟子に対してだけでなく、わたしたちに対してもそのように優しくしてくれております。今日も…
神の民よ、み手のわざを告げ知らせよ。神はあなたがたを、暗やみの中から驚くべき光に招き入れてくださった。(一ペトロ2・9)
イエス様は、死と苦しみの闇から復活の新しい命に、必ず与ることができる約束をしてくださいました。
(エマオの弟子たちは)話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。(ルカ24・15-16)
わたしたちの場合も、毎日イエス様が一緒に歩いておられます。しかし、わたしたちがほとんど気が付いていません。もう少し、一緒に歩いておられるイエス様を目に留めて、毎日を過ごしましょう。
神のことばはただしく、そのわざにはいつわりがない。
神は正義と公平を愛し、いつくしみは地に満ちている。(詩編33・4-5)
神様の言葉に従えば、まちがいなくわたしたちが幸せになれます。
キリストは死者のうちから立ち上がられた。死はもはや、キリストを支配することがない。(ローマ6・9)
イエス様は、わたしたちに同じ約束をしてくださいました。わたしたちも復活するのです。
あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。(コロサイ3・1-2)
復活されたイエス様が、わたしたちを天国に導こうとされておられるので、素直について行くようにいたしましょう。
墓のところで、イエス様を捜していた二人の婦人に、天使が次のように言われている。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている。」(ルカ24・5-7)
わたしたちが、婦人たちのように死しか考えておりません。わたしたちも、必ず復活することを忘れてはいけません。
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。(ヘブライ5・7)
イエス様が、自分を守ることができたのに、周りの人に好きなようにさせました。それは、私たちの罪をつぐなうために他なりません。
新しいおきてをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい、わたしがあなたがたを愛したように。(ヨハネ13・34)
確かに難しいおきてですが、イエス様の助けによってそのように実行できるのです。
人の子は、仕えられるためではなく仕えるため、また、多くの人のあがないとして、自分のいのちを与えるために来た。(マタイ20・28)
もらうことだけ考えるのではなく、何が与えられるかを考えるようにしましょう。
神は、わたしたちすべてのために、ご自分の子さえも惜しまずに、死に渡された。(ローマ8・32)
このように寛大にしてくださった神様にケチなことは言えません。わたしたちも、それに寛大に応えなければならないことでしょう。
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。(イザヤ42・1-3)
どういうことがあっても、希望がある。この僕のはなしは、イエス様に適応されております。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。(フィリピ2・6)
神でありながら、そのようになられたイエス様に倣って、わたしたちも同じ奉仕の精神をもつことができるようにいたしましょう。
キリストは、散らされていた神の子らを一つに集めるために死に渡された。(ヨハネ11・52)
一つに集められ神様の家族になって、大切な一員として守られています。
イエスは、十字架の上でわたしたちの罪を身に負われた。それは、わたしたちが罪に死んで正しく生きるためである。わたしたちはキリストの傷によっていやされた。(一ペトロ2・24)
そこまでしてくださったイエス様に、どういう恩返しをすればよいでしょうか。祈って考えましょう。
わたしたちすべてのために、ご自分の子さえも惜しまずに死に渡された神は、御子といっしょに、すべてのものをわたしたちに与えてくださる。(ローマ8・32)
これ以上の寛大さは考えられない。わたしたちも、大胆にその愛に応えましょう。
神はわたしたちを、ご自分の愛する子の国へ移してくださった。わたしたちは御子のうちにあって、その血によるあがないと罪のゆるしを受けている。(コロサイ1・13-14)
イエス様は、わたしたちが幸せになるために血を流しました。わたしたちは、恩返ししなければならないことでしょう。
神を待ち望め。強くたくましく神を待ち望め。(詩編27・14)
神さまは、決して裏切られることがなく、わたしたちが悪い者であっても、いつも誠実で約束を守る方です。
たとえ死のかげの谷を歩んでも、わたしは災いをおそれない。
あなたがわたしとともにおられ、そのむちとつえはわたしをまもる。(詩編23・4)
むちとつえがあったとしても、神さまのたえることのない愛を信じましょう。
種を手に涙を流して出て行く人は、束をかかえ、喜びにあふれて帰ってくる。(詩編126・6)
犠牲が求められるが、必ず最後に喜びがある。
わたしたちは、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストのとうとい地によってあがなわれた。(一ペトロ1・19)
わたしたちの救いが、何の罪もないイエス様の血によって行われたことを思い出して、それに応えましょう。
人はパンによるだけではなく、神のことばによって生きている。(マタイ4・4b)
体はパンで満足するかもしれませんが、わたしたちの魂がそれだけでは満たされません。神さまのことばを必要としていますし、永遠の命をめざす道を歩まなければ決して満足しません。